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    入るなり、

    「おとうちやん、どこへ行くの」

    一人前の医者になるといふことは、何等の学歴もなく又資もとでもなかつた房一にとつては困難をきはめた仕事であり、それだけに心の全部を惹きつけていたものだつたが、今その峠に達してみると、更に前方に見えて来たいくつかの峠が彼の新しい野心を惹きはじめていた。その野心の目的といふものも、彼が東京の市内で散見することのあつた大病院の院長とか、或ひは病理学研究の名声赫々たる博士とか、さういふ粗雑なものにすぎなかつたが、それは名声が彼にとつて魅力があり、院長の威厳が彼に好もしく思はれたのではなく何かしら内部に溢れる野気が単にさういふ粗雑な形の中にその吐け口を見つけようとしたのであつた。

    男は眼を閉ぢたまゝだつた。

    それは一尺近い美事な鮒だつた。だが、三匹きりなかつた。いかにも少いと徳次は路々思つて来た。さう思ふと、この鮒が本当よりもずつとちつぽけにさへ見えて来たのである。

    「捕虜が内地へ送られるさうだよ」

    「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」

    しばらく行くと、ちやうど河原町の中ほどにあたる所で家並みがかなり長い間途切れていた。まはりは田圃たんぼだけの、そこで今までまつすぐに来た道路は斜めに屈折して、二つの直線をなす上の町と下の町との喰ひちがひをつないでいた。上の町のとつつきはやはりはつきり曲つているので、その端にある雑貨店の前面が殆ど突きあたりに見えた。それは横手の壁が白く快げに厚く塗られて、その上に青黒い漆喰しつくひで屋号を浮き出させた、かなり大きな裕福さうな家だつた。房一がその方に向つて歩きながら何気なく見ると、一人の男がその家の前に立つているのが目に入つた。たつた今何となく家の中から出て来たらしくいかにも用がなげにあたりを見まはしていたその男は、近づいて来る房一の姿に気づくと大袈裟に手を額にかざして日をよけながらぢろぢろと眺めはじめた。それはまるで、この道路が彼の私有物で、そこを案内もなしに闖入ちんにふして来る見ず知らずの男を咎めにかゝつてでもいるかのやうであつた。

    「いためた?」

    小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つていた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩はうたうは由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつているが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠とした捉つかみがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行き交かひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。

    と、盛子が傍から又さつきのをかしさを思ひ出したらしく、そつと注意した。

    相手はさつきから黙つて、房一と徳次の様子を眺めていた。さすがに気が立つているらしく、節くれだつた手首を食台の上でこねるやうに動かしていた。そして、徳次よりもはるかに手答へのあるらしいこの男が何者か見究みきはめようとして、どこか気を配つた様子だつた。

    間もなく二人は来た時と同じに、つれ立つて、いくらか日蔭のできた路を、どういふものかどちらも自転車に乗らうとはしないで、押しながら歩いていた。

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